今の日本の中で、高齢者であっても、自分のお家で布団の中で自然死を迎えるということはとても難しい。
今日書く自然死の話題はちょっと重いかもしれないけれど、決して悲惨な話ではないと思っている。
現代社会の中、自然死を迎える前に、どこか何かの不具合が出て病院に入院して処置をされていき、とにかく「命」が長引くために次から次へと薬や点滴、酸素や、胃ろう、人工呼吸器などが取り付けられていき、いわゆるスパゲティー症候群のような延命処置がとられることが多々ある。
高齢者の自然死をテーマとしての番組をいくつかやっていた。
いくつかの事例が淡々と進んでいます。
老老介護で、認知症の奥様を最期まで自宅で見送りたいと奮闘している夫、
ケアマネさんなどが、「どうぞ遠慮なく私たちの手助けを受けて下さい」と言っているのが印象的です。なんでも自分で抱え込んで、辛くなってしまうことが多々ありますもの。
また、簡易宿で暮らす高齢男性の最期が近づいた時に、どんな風に最後を暮らしたいか聞いてくれて、なるべくそれにそうようにサポートしていく医師の姿にも感銘。
胃ろうや人工呼吸器など、そういう処置をどうするか、またその場所でなるべく暮らせるようにするか、入院するかなども細かく聞き取りしてくれている。
家族がいないで天涯孤独な男性にとっての救いだ。
さらに100歳のおばあちゃん、娘さん達はすでに80歳近い。
最期まで自宅でなんとか面倒をみながら、ゆっくりと穏やかな死を迎えられることを望んでいる。
それでも、入院せざるを得ない厳しい状態になった時、無理をおしながらも一時帰宅して自宅をもう一度見せてあげる。
仏壇の前に連れて行き、おばあちゃんとその娘がわずかの時間共有して、
自宅での景色を焼き付け、空気やにおいをいっぱいに吸う。
これはとても大事な儀式だと感じた。
そうして、最後は病院で迎えたが、娘も孫もひ孫も、みんなが見守る中、苦しそうな様も何回もありながらも、自然死を迎えていったのだ。
その間、娘さんたちもぐっと耐えて、呼吸器をつけずにがんばるおばあちゃんの姿を見つめる。
ここを堪えて耐えるのはなかなかに勇気がいると思う。
人工呼吸器などをつけてしまえば、何となく、その場は楽になってみえるからだ。
そこは、おばあちゃんの意思が娘たちにしっかりと伝わっていたからこそだろう。
さて、本題に入ると、今、我が父が入院していて、体中が悪い状態だ。
しかし、父はほんの3か月前までは好き勝手に生きていた。
膝や腰が悪く、少し歩くと痛いと言っていたが、それでも、自分の運動のためにグランドゴルフに通い、整形外科や内科にも言って居たけれど、毎日お酒を飲んで、週に一回はスナックに行ってカラオケを歌い、その仲間たちと年に二回くらいは旅行に行き、老人会の役員をやり、その旅行にも行っていた。
ところが、色々とあったが、今は入院していて、心臓、肺、胆嚢、肝臓、腎臓、膵臓が悪く、
とにかくあちこち悪いのだ。そして、いつどうなるか分からないのだ。
大たい骨骨折、そして大動脈瘤の手術と続き、かなりのダメージで、自由に動ける状態ではなく、オペ後にしばらくしてリハビリ病棟に移っていたが、肺炎になり、その後の状態が悪く内科病棟に逆戻りした。
すごくしっかりした部分もありながら、せん妄もあり、時々ありもしないことを言ったりもするし、看護士さんや家族を巻き込んで、なかなか大変な状態だ。
入院しているために色々な処置は速やかないなされるので、また少し持ち直す。
そんな中で、先日、内科医との面談だった。
男性は80歳を過ぎたら、その時点で偏差値60だそうだ。
今回の内科の先生はさすがに「内科」だけあって、終末期医療のことを考えているように感じた。母の認知症の主治医でもあった先生で、いつも父が母に付き添ってきていたことを記憶してくれていた。
父は、現実問題として、この先に家に帰ることは難しいようだ。
妹が「時々は好きなものを何でも食べさせてはダメなんでしょうかねぇ?」と聞いた。
常に洗濯や事務的なこと、支払など実務は妹がしている。
そして、面会に行くたびに
「ふりかけを持って来い!」「海苔の佃煮」「寿司が食べたい」など
腎臓と糖尿病のための食事制限があるので、薄味にまいっているのだ。
普段から高齢者向けのお弁当をとって食べていたが、それにしょうゆをかけたり、つけものや刺身やラーメンなど、好きなものを好きなだけ食べていたのだ。
病院のご飯もあまり食べていない。
治る見込みがなく、あまり長くないのなら、好きなものを食べる方がずっとQOL(生活の質)が良いかと思うのも確かだ。
医師は、
「もう少し待ってください。まだリカバリー出来るかもしれないので」と言った。
私は思いきってこう切り出した。
「父は胃ろうなどは嫌がっていたので、しないでくださいね」と。
父はかねがね、もしもの時には延命処置はしないでほしいと言っていた。
でも、いつも言っていてもそれは家族だけが知っていることだ。
急変した時に、病院に行ったらすでに胃ろうや人工呼吸器などあちこちつながれていたら、外してくださいとも言えないし、実際に医師も外すことは出来ないだろう。
そして、父は入院した時には、てっきり治って家に戻るつもりでいたから、
万が一の状態になった時に延命処置のことを医師にいうこともなかったのだ。
医師はそれを受け入れてくれて、急変したりするかもしれないけれど、
なるべく「自然な死」に近い形でいけるようにしていきましょうと言ってくれた。
そして、父が無意識の中で一番気にしている点である母に会うということは、なるべく早く叶えてあげたいと思う。
それは、きっと、父にとっても、母にとっても、そして娘である私や妹にとっても
思い残しなく父を看取っていく為に必要なことなのだ。
今日の自然死の話は、決してだれでもそうだということではない。
積極的な治療をすることで、まさにリカバリーできることがたくさんあるのも知っている。
が、本人のQOL(生活の質)がいかに保たれるのかが本当に大切なことだと痛感している。